「ピーター・パンとウェンディ」(バリー)①

決して子どものためのメルヘンではありません

「ピーター・パンとウェンディ」
(バリー/大久保寛訳)新潮文庫

フック船長との対決を終えた
ピーター・パンと仲間たちは、
ウェンディ、ジョン、
マイケルの姉弟を
ロンドンの家に送りかえす。
パンの仲間4人は
ダーリング家の子どもとして
育つことを望むが、
パンはそれを断り、
空へと消えた…。

粗筋を紹介するとすれば、
パンが現れて子どもたち3人とともに
ネバーランドへと旅立った場面か、
フック船長一味との戦闘を
取り上げるべきなのでしょう。
でも、私にはこの最後の第17章こそ、
本作品の最も重要な場面に
思えてならないのです。本作品で
作者・バリーが描きたかったのは、
パンの冒険ではなく、
彼が味わった悲哀なのではないかと
感じだからです。

パンは大人になることを
頑なに拒んだ存在です。
では「大人」とはどんな存在か?
本作品に描かれている「大人」は、
ネバーランドのインディアンと
海賊を別にすれば、現実世界では
ウェンディの父母ぐらいなのです。
ところが、ウェンディの父親は
ある意味卑屈に描かれています。

子どもを育てるために
かかる費用を算出し、それでなければ
子どもの誕生を喜べません。
子どもとともに苦い薬を飲む
約束をするのですが、
自分はインチキをして飲もうとしません
(かなり見苦しい様子です)。
子どもたちが家を出て行ったのは
自分に責任があると思い込み、
犬小屋で眠るようになる
(ここはある意味潔いのですが)。

本作品が書かれた20世紀初頭の英国は
紳士淑女の国であり、子どもの頃から
誰しもが将来は立派な紳士となるべく
育てられていたはずです。
子どもが「小さな大人」として
教育されていたのです。そこでは
子どもらしい無邪気さや、
子どもらしい無秩序さや、
子どもらしい脳天気さなど
全て排除されていったのではないかと
考えられます。

パンは、そうしたものへ背を向け、
子どもらしさ、無邪気であり、
無秩序であり、脳天気であり、
つまりは「自由」であることを
失わない存在として
描かれたのだと考えます。

一方、ウェンディは最初から最後まで
「小さな母親・小さな淑女」として
描かれています。
ネバーランドでは
自身の2人の弟だけではなく、
パンの4人の仲間、
そしてパンにとって
母親であり続けました。
ネバーランドにいても
自分の両親のことを忘れず、
父母がどのような思いでいるかを
しっかりと理解していたのです。
だからこそ、
帰る決意ができたのです。

パンとウェンディは、
だから結ばれることはないのです。
すれ違う運命にあるのです。
最終章で、大人になったウェンディが
パンと再会する場面は、
爽やかであるとともに
深い悲しみに包まれています。

本作品は決して子どものための
メルヘンではありません。
人のあり方を問う大人の物語です。
中学生のうちに
アニメ映画ではなく文章で触れて、
さらに大人になって
再読すべき作品です。
中学校1年生に薦めます。

(2020.1.2)

Lalelu2000によるPixabayからの画像

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